サリエリによる毒殺説の真相は?
映画『アマデウス』(ミロス・フォアマン監督:1984年)は、ウィーン宮廷楽長アントニオ・サリエリの「毒殺説」を描いている。モーツァルトの死後、ウィーンの新聞は「サリエリが盗作するために、毒殺したのではないか」とセンセーショナルに書き立てる。
1820年頃にウィーンの宮廷音楽界に、ロッシーニを担ぐイタリア派とウェーバーを担ぐドイツ派の激しい論争・対立が起きたため、イタリア人のサリエリが批難の矢面に立たされた。「宮廷楽長の座に長年居座り、モーツァルトの昇進を妨げるために毒殺したのか?」と巷に流布された。
この噂にサリエリは悩まされ、重度の抑うつ症となるが、入院したのは痛風と視力低下で起きた怪我の治療のためとされる。
1823年に弟子のピアニスト、イグナーツ・モシェレスに「モーツァルトを殺していない」と厳粛に明言。1825年に74歳で死去するまで否定する。しかし、モシェレスは疑念を抱き、日記に「モーツァルトを毒殺したに違いない」と書き残す。
だが、映画『アマデウス』が描いているように、サリエリが精神病院で余生を閉じるシーンや、モーツァルトを死に追いやったと告白するシーンは、原作者ピーター・シェーファーのフィクションだ。
サリエリは、音楽家として成功し、経済的に恵まれたため、慈善活動に心血を注いだ。才能のある弟子や生活に困窮する弟子、その遺族に経済的な支援を惜しまなかった。
また、モーツァルトのミサ曲をたびたび演奏し、『魔笛』を高く評価。モーツァルトと親交を深めている。モーツァルトの死後の1793年1月2日、スヴィーテン男爵の依頼を受けて、遺作『レクイエム』を初演したのもサリエリだ。
ちなみに「毒殺説」の根拠のひとつになった成分は、ナポリ水とも呼ばれたアクア・トファーナ(亜砒酸が主要成分の水溶液)。当時の美顔薬、美白薬に常用されている。
それでも毒殺説は否定しきれない!?
急死の5ヶ月前の1791年7月に、モーツァルトは、妻コンスタンツェに以下のような手紙を書いている。
「私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」(『モーツァルト書簡全集』白泉社)。
当時の宮廷音楽界で売れなかった二流の音楽家たちの中にモーツァルトを敵対視し、嫉妬していた人物があった可能性は高い。
先述のように、浮腫、高熱などの苦しい病態に追い込まれたなら、モーツァルトが精神的な被害意識や根拠のない妄想を抱いても致し方なかったかもしれない。
ちなみに、妻コンスタンツェとの間に4男2女をもうけるが、2男2女は乳幼児の時に夭逝。成人したのは長男カール・トーマスと次男フランツ・クサーヴァーだけだ。
だが、次男フランツは実子ではなく、妻と弟子のフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーとの婚外子とする説がある。一方のフランツは「モーツァルト2世」を名乗り職業音楽家の道へ進んでいる。
しかしカールにもフランツにも子どもがなかったため、モーツァルト直系の子孫は絶えている。