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【シリーズ「傑物たちの生と死」第21回】

「真田幸村」の死因は?人気ナンバーワンの戦国武将は49歳で無念の最期……

家康を自害寸前まで追い詰めるが、49歳で無念の壮絶死!

 懐柔策に乗らない信繁に業を煮やす家康、秀頼への忠誠を強める信繁――。そして1615(慶長20)年、大坂夏の陣の戦端が開かれる。5月6日、信繁は六文銭の軍旗を旗めかしながら、朱の鎧に身を固め、愛槍・十文字槍を携え、道明寺の戦いに参戦。伊達政宗の先鋒・片倉重長らを銃撃戦で撃退する。

 信繁の真田隊は、殿軍(しんがり)を務め、伊達政宗の大群を蹴散らかしつつ、豊臣全軍を無事に撤収させる。信繁は「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候(関東武者は星の数もいるが、男と呼べる人物は一人もいない)」と嘲笑しながら、悠然と城に帰還。後世に語り継がれる勇壮な名場面だ。

 翌7日、茶臼山に布陣した信繁が率いる真田隊は、越前松平家の松平忠直(家康の孫)1万5000余の大軍を突破。10部隊もの徳川勢と交戦しつつ、後方の家康本陣を目ざして突撃。並み居る親衛隊・旗本・重臣勢を次々と撃破し、遂に家康本陣に突入する!

 真田隊の凄まじい猛突進に本陣は大混乱に。家康は自害も覚悟する。家康の所在を示す馬印(うまじるし)まで、あと数歩まで迫る。だが、数度に渡る突撃で真田隊は疲労困憊、手勢は風前の灯。兵力で勝る徳川勢に押し返される。

 満身創痍の信繁は、四天王寺近くの安居神社の境内に逃れる。だが、松平忠直隊鉄砲組頭の西尾仁左衛門に遭遇し、槍で射抜かれ昏倒。「儂(わし)の首を手柄にされよ」。首を差し出し、討ち取られる。信繁49歳。壮絶な最後だった。

信繁の勇姿は軍記物、講談、草双紙(絵本)で語り継がれる

 越前松平家に伝わる『松平文庫』によると、西尾は相手が誰か知らずに馬上の信繁に声をかけ、互いに下馬して槍で戦った末に討ち取り、後に信繁と知ったと記述している。

 講談『真田三代記』に「花の様なる秀頼様を鬼のやうなる真田が連れて、退きものいたよ加護島(鹿児島)へ」とある。『日本一の兵 真田幸村』(小林計一郎)では、打ち首になったのは信繁の影武者7人の内の1人で、信繁は秀頼と共に城を脱出して鹿児島へ逃れ、天寿を全うしたという。

 家康の本陣まで攻め込んだ信繁の勇姿は、江戸幕府や諸大名家の史料に刻明に記録されたため、夥しい軍記物、講談、草双紙(絵本)に華々しく勇壮に描かれている。明治・大正時代は、立川文庫の講談文庫本が巷に溢れ、真田十勇士を率いて宿敵・家康に果敢に挑むヒーロー幸村のイメージが庶民に深く浸透する。

 『日本史有名人の臨終図鑑』(篠田達明/新人物往来社)によれば、信繁が打ち首になる直前は、信繁は多発性外傷(切り合いの切傷や刺し傷)による出血性ショックの瀕死状態だった。出血性ショックは、多量出血のために内臓の血流が維持できず、血圧が急低下し、細胞機能が保てなくなる危篤状態だ。信繁は、頻脈(脈拍数の増加)や顔色蒼白に襲われ、冷や汗を吹き出していたに違いない。

信繁は「幸村」を名乗ったか?

 さて、真田幸村の名前が広く知られているが、「諱(いみな)」は「信繁」が正しい。諱は「忌み名(いみな)」「真名(まな)」「本名」ともいう。中国や日本などの漢字文化圏では、昔から貴人や死者の諱を口にすると、霊的人格を支配できると信じられていたため、諱で呼ぶことを避ける慣習があった。

 一方、諱に対して人を呼ぶ時に使う名称を「字(あざな)」といい、戦国時代や江戸時代の武人は、諱と字を併用していた。諱は、親や主君などの目上の人に呼び掛ける時に使い、それ以外の人に呼び掛ける時は字を使った。

 したがって、諱は「信繁」、字は「幸村」になる。ただし、信繁は生前の直筆の書状にはもっぱら信繁を使い、幸村を使った形跡はない。信繁が幸村と自称したか、他称されていたかは判然としない(『真武内伝附録』『大峰院殿御事蹟稿』)。

 幸村の名が初めて文献に出るのは、大坂夏の陣が終わっておよそ60年後の1672(寛文12)年に刊行された軍記物『難波戦記』だ。『難波戦記』では、左衛門佐幸村や眞田左衛門尉海野幸村との名乗りが登場するが、信繁が実際に名乗った証拠はない。

 しかし、幸村の名に強い説得力があったためか、17世紀後半の元禄期には、庶民に広く知られていた。大坂夏の陣からおよそ200年後の1809(文化6)年、徳川幕府の大目付が松代藩・真田家に問い合わせた時、真田家は「当家では信繁と把握している。幸村は、大坂入城後に名乗った字である」と回答している。

武士道をひたすら貫いた人気ダントツNO. 1の戦国武将

 私利私欲を拒み、秀頼への恩義を死守し、武士道をひたすら貫いた人気ダントツNO. 1の戦国武将・真田幸村。真田の赤揃え、六文銭の軍旗、愛槍・十文字槍、刀は正宗、脇差しは貞宗。「人、伝説に酔い、伝説、伝説に酔い、伝説、人に酔う」という。「幸村壮絶死!」は未来永劫、伝説化したまま語り継がれるのだろうか?

 しかし、不屈不撓の武勇伝、武闘派武将の壮絶なラストを知れば知るほど、なぜ天下人になれなかったと考えてしまう。あまりにも一途に「人の道」にこだわり過ぎたのだろうか?

 「定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候」(戦乱の世は、明日自分がどうなるか分からない)。


佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。

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