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【シリーズ「病名だけが知っている脳科学の謎と不思議」第3回】

ギラン・バレー症候群の名付け親は?〜年間およそ2000人もの日本人が苦しんでいる難病の正体

なぜ「ランドリー・ギラン・バレー症候群」にならなかったのか?

 ギラン・バレー症候群のルーツは、脊髄の障害であるミエロパチー(脊髄症)の発症機序がまだ詳しく知られていなかった時代に遡らなければならない。

 1859年、フランス人の医師ジャン・ランドリーは、ミエロパチーに侵された患者の症例をフランス神経学会で世界に先駆けて報告する。「この患者は発熱,頭痛,四肢痛を強く訴え、下肢全体から耐えがたいほどの麻痺が起きていた。やがて激しい麻痺は数日間のうちに躯幹、上肢、頭蓋筋に及び、患者は精神的にもひどく疲弊して倒れた。自律神経障害は突然死の原因になる。麻痺による長期的な臥床は肺梗塞症の致死的な誘因になる恐れが強い」。ランドリーの鋭い警告は説得力があった。フランス神経学会は、発表を高く評価した。

 脊髄には、四肢体幹をコントロールする運動出力と感覚入力に関わる神経系がすべて通っているので、ミエロパチーは他の神経系の病変に比べると重篤な四肢麻痺や感覚障害が起きやすい。その複雑な機序を上行性脊髄麻痺(ascending spinal paralysis)と認定したランドリーの先見的な知見にちなみ、「ランドリー麻痺」と命名されるようになった。

 半世紀もの歳月が流れる――。第一次世界大戦最中の1916年、フランス人医師のジョルジュ・チャールズ・ギランとジャン・アレクサンドル・バレーは、急性の運動麻痺を訴える2名の患者の症例を解明し、フランス神経学会で絶賛される。以来、「ギラン・バレー症候群」の名が定まった。

 その後も、ギラン・バレー症候群は、さまざまな変遷を重ねつつ治療の革新が進み、急性特発性多発神経炎、急性炎症性脱髄性多発神経根ニューロパシー、フィッシャー症候群とも呼ばれるようになった。

 しかし、そこに先駆者ジャン・ランドリーの名はない。ミエロパチーや上行性脊髄麻痺の解明に死命を尽くした功労者の名は忘れ去られている。ギラン・バレー症候群が「ランドリー・ギラン・バレー症候群」と呼ばれる日はついに来なかった。ランドリーは悔しがっているかもしれない。

 だが、血漿交換療法、免疫グロブリン大量療法、免疫吸着療法など、免疫学的な治療に注がれた先人らの功績や情熱は、ギラン・バレー症候群の名に鉱脈のように刻まれている。

*参考文献:『アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語』(ダウエ・ドラーイスマ/講談社)、『メルクマニュアル18版』


佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。

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