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【シリーズ「傑物たちの生と死の真実」第7回】

「死の商人」ともいわれたノーベルは、うつ病を患い持病の心臓病から脳溢血で死去

 「死の商人、死す。可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物、死去」

 1888年、急死した兄リュドビックとノーベルを取り違えた新聞の死亡記事が物議を醸す。以来、ノーベルは、積み上げてきた業績や死後の評価気にかけ、社会への貢献を深く考えるようになる。だが、ヨーロッパや北米で複数の会社を経営する重責感やストレス、うつ病とも闘っていた。

 1895年、過労や心労が重なったのか、持病の心臓病が悪化、精神的にも肉体的にも限界を感じる。

 「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」

 11月27日、ノーベル賞を創設するための遺言状に署名。遺言状によれば、税金と個人への遺産分を除いた全財産の94%に相当する3122万5000スウェーデン・クローナ(約4億3700万円)を、5部門(物理学賞、化学賞、生理学・医学賞 、文学賞、平和賞)のノーベル賞の創設に割り当て、国籍の差別なく毎年授与すると書き残した。

 だが、ノーベルは、遺言状の内容を誰にも相談していないため、死後の財産分与、選考方針の解釈、遺産の運用などで、醜悪な論争や激しい議論の火ダネを残した。

 遺言状を書いた翌年の1896年12月7日、サンレーモの自宅で脳溢血に倒れる。ノーベルは、医師が勧める降圧薬のニトログリセリンの服用を拒否し続けていた。倒れる1時間前に知人に手紙を書いていた。倒れた直後に意味不明ながら、「電報!」と声を発したと伝わる。とり急ぎ親類が呼び寄せられるが、3日後の12月10日に死亡。臨終を見守ったのは召使だけ。ノーベルは、ストックホルムの北の墓地に埋葬された。

 ダイナマイトの発明。ノーベル賞の創設。スウェーデン王立科学アカデミー会員、ジオン・ド・ヌール勲章。ウプサラ大学名誉学位……。数々の先駆的な業績、稀に見る栄誉やステイタス。科学技術の世紀の到来を予見したスゴ腕の化学者は、スウェーデンが世界に誇る天才発明家だったのか? 兵器生産で私腹を凝らした「死の商人」だったのか? ノーベル賞で秀才・奇才を発掘した平和主義者だったのか?

 「この世の中で悪用されないものはない。科学技術の進歩はつねに危険と背中合わせだ。それを乗り越えてはじめて人類の未来に貢献できるのだ。遺産を相続させることはできるが、幸福は相続できない」

 「仕事があれば、そこが我が祖国」とも語ったノーベル。希代のダイナマイト王は、熱烈な愛国者だったのかも知れない

 戦後70年の節目のノーベル平和賞に日本の被爆者や憲法9条に関連する団体の受賞に注目が集まっている。発表は9日で、日本からの受賞となれば、41年ぶりとなる。


佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。

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