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【シリーズ「傑物たちの生と死の真実」第5回】

西郷隆盛の最期は?西南戦争での遺体確認の決め手は肥大化した陰嚢!?

首のない遺骸、陰嚢水腫の痕跡、右大腿部の銃創

 1877(明治10)年、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱などの不平士族の反乱が頻発する。

 西郷を疎ましく思っていた政府は、密偵団を差し向け、西郷暗殺の密令も出している。折しも、政府の挑発に乗せられた私学校の生徒らの暴動が誘い水になり、西南戦争が勃発。西郷も先陣へ。田原坂(たばるざか)の大激戦などを経て、城山に籠城する。

 『南洲翁遺訓』や『西南戦争と県令岩村通俊』などの記録によると、9月24日午前4時ころ、政府軍の集中砲火が城山を貫く。西郷に付き従った人々は40余名。「潔く死のう」と決意を固め、下山して進撃するが、西郷は肩と右大腿部に被弾。傍らにいた別府晋介に「晋どん、もうここいらでよか」とつぶやく。別府は涙を流しながら「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねる。うどさぁ(偉大)な南洲翁の壮絶な最後だった。

 なぜ首のない死骸が西郷と分かったのか? それは巨大な陰嚢水腫だった。一方、西郷の首は、折田正助邸門前に一旦埋められる。戦闘終了後、西郷の首は発見され、政府軍の総指揮官・山縣有朋が検分。後日、亡骸とともに、南洲墓地に手厚く埋葬された。

 死後およそ140年――。鹿児島県人はもとより、西郷どんの人気は衰えない。人々の人望や信頼を集め、明治維新を成し遂げる原動力になった。「死地に入ってこそ、道が開ける」が終生の信念だった。日中韓同盟やアジアを視野に入れた壮大な国家計画。私利私欲に執着しない潔さ。何事も受け容れる度量の広さ。薩摩男の清廉誠実、質実剛健。その人間くさい魅力は、いくら言葉を重ねても言い尽くせない。錦江湾に腰を据える桜島のように、幾世紀も日本人の心に生き続けるだろう。次回は、西郷どんと幕末を駆け抜けた風雲児、坂本龍馬を取り上げよう。


(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。

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