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【シリーズ「傑物たちの生と死の真実」 第1回】

徳川家康の死因は、天ぷらの食べすぎ? それとも胃がん?

 家康の死の記録は、徳川家の歴史を記した公式文書『徳川実紀』や家康の侍医・片山宗哲が残した『片山家譜』に詳しい。「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きな腫瘤(しこり)は、手で触って確認できるくらい」と書かれている。症状から見て、胃腸の酷使やストレスによる腸カタル、悪性の胃腸病、胃がんなどが疑われる。

 作家の篠田達明氏は、著書『徳川将軍家十五代のカルテ』で、医史学者・服部敏良博士の胃がん説を紹介する。家康は発症前から食欲がなく、体が痩せてきた、侍医が触診でしこりに触れた、発症後3カ月で亡くなった点を指摘する。

 一方、『類聚伝記大日本史』や『武徳年譜』を見ると、「鯛の天麩羅様の料理を食したが、その量をすごしたため胃を傷つけ、家康自身は之を條蟲の故と信じて萬病圓といふ強力の薬を多量に用ひたため更に症状を進ませ、四月十七日遂に七十五歳を一期として永眠」とある。

 條蟲は寄生虫のサナダ虫、萬病圓は万病に効く薬。家康は、激痛やしこりはサナダ虫が原因と自己判断。侍医の診断に耳を貸さず、自前の薬を服用した。一説では、当時は気つけ薬に水銀を使用した銀液丹という薬が病気の治療に使われており、家康が水銀中毒だった可能性もあるという。

 家康が亡くなる1ヶ月前の3月17日、後水尾天皇から家康を太政大臣に任ずる旨の宣命が下る。27日、勅使が駿府に着くやいなや、家康は任官の宣命を拝した後、勧盃の儀を滞りなく執り行い、能楽を催す。その時の家康は、衣冠束帯で少しも姿勢を崩さず、背筋を真っすぐ伸ばしている。とても病中の人とは見えない。だが、何らかの病状は進行していたのかもしれない......。

 200余年の時を経た幕末。勝海舟から天ぷらの美味を教えられ、大の天ぷら好きになったのが15代将軍・徳川慶喜だ。城下のひいきの天ぷら屋に命じて、直径5寸(約15cm)のかき揚げを頻繁に運ばせていたという。天ぷらをかぶりついて腹を痛めた家康。天ぷらに魅入られた慶喜。徳川265年を天ぷらが取りもつ奇縁だ。

佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。

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