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【シリーズ「病名だけが知っている脳科学の謎と不思議」第17回】

「脈なし病」と呼ばれる「高安病(高安動脈炎)」は日本人の罹患数が推定およそ5000人!

高安先生!やっぱり佐賀仕込みの異風者!

 1923(大正12)年、63歳になった高安は、金沢医科大学の初代学長に就任。翌年、退官後は電車通り沿いに、こじんまりした眼科医院を開業。地元の開業医に気を配り、あえて高い治療費を取る自由診療を守った。医院の裏手にあった不動明神の滝水で患者が目を洗う姿を見ては、快癒を密かに祈っていた。

 そんな細やかな気配りも、患者への情愛も、異風者(いひゅうもん)ならではの心ばせだったのかもしれない。

 眼科医師で出立して40有余年。質実剛健だけが身上だったが、胃腸に不調を覚え、別府で湯治入院する。こんなエピソードもある。古女房を前に「自分で腹の痛さ味わって初めて、お前が妊娠して痛がったワケを知った。さぞかし苦しかったろう」と苦笑し、労った。

 その後、10年余りは寝たり起きたりの闘病生活。日本軍の中国侵略が泥沼化、世相は挙国一致に傾いていた。1938(昭和13)年11月20日、末期の直腸がんのため、79歳で亡くなった。

 鹿児島大学教授を勤めた子息の高安晃は『父、高安右人の想い出』にこう書き記す。

 「金沢の山や川を心から愛した。ビリヤードも、謡や漢詩も嗜んだ。宴会で酔うと、足の指に盃をかぶせ、箸を器用に操り、カッポレを踊って場を湧かせた。仕事は厳格だが、面白い話を聞かせるやさしい父。金沢で40年数年も診療に明け暮れていた父。だが、どういう風の吹き回しか、患者ではない、市場や長屋に暮らす市井の人たちに大勢の友人がいた。不思議な男だった」


佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。

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