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【DNA鑑定秘話 第21回】

DNA鑑定秘話〜「松山事件」は致命的な虚偽鑑定が冤罪を生んだ!

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松山事件は逮捕から34年8カ月後に無罪確定(shutterstock.com)

 1955(昭和30)年、電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビが「三種の神器」ともてはやされ、日本初のトランジスタラジオも発売。ラジオ東京テレビ(TBSテレビ)の開局し、石原慎太郎の小説『太陽の季節』、ジェームズ・ディーンの映画『エデンの東』がヒット。敗戦から10年、不死鳥のように甦った日本は、経済も文化も生活も、新たな胎動が始まっていた。

 だが、茶の間の団らんを寸断するかのようように、想像を絶する無惨な殺人事件を報じるニュースが流れる――。10月18日、宮城県志田郡松山町の農家が放火されて全焼、焼け跡から夫(54歳)、妻(42歳)、四女(10歳)、長男(6歳)の4人の判別できないほどの焼死体が発見された。宮城県警はただちに遺体を解剖し、長男以外の頭部に刀傷が認められたため、放火殺人事件捜査本部を立ち上げ、捜査員を総動員して聞き込み捜査に入る。事件後1ヶ月で捜査は暗礁に乗り上げるが、犯行当日以後、地元を去った人物を絞って追跡調査をした結果、東京・板橋区内の会社に勤務していた斎藤幸夫さん(24歳)を突き止める。

 12月2日、警察は斎藤さんの身柄を拘束するために、すでに示談成立していたケンカを傷害事件に格上げし、上京を家出に見せかけた高飛びと偽り、斎藤さんを別件逮捕した。斎藤さんは警察の厳しい取調べで自白と撤回を繰り返す。しかし、12月8日、警察は放火・強盗殺人の容疑で逮捕、12月30日に起訴。しかも警察は、斎藤さんを自白に追い込むために、留置所内に前科5犯のスパイを送り込む。「警察の取調べで罪を認めても、裁判で否定すればいい」と斎藤さんを陥れる暴挙に出る。さらには、斎藤さんの自白を裏づける証拠になった男性の掛け布団の血痕を捏造し、虚偽の自白調書を作成した。

 斎藤さんは第1審、第2審を通して、ひたすら無罪を訴えるが、1960年11月、最高裁で死刑判決が確定。諦めることなく再審請求を繰り返し、9年後の1979年に再審がついに始動。検察庁が裁判不提出記録(裁判の証拠として提出していない証拠)を開示したことから、斎藤さんに有利に審理が進み、1984年7月、ようやく再審無罪判決に至る。斎藤さん53歳。実に29年ぶりに果たした「死刑台からの生還」だった。

冤罪事件の温床となった犯罪的な要因

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