最後まで不屈の魂を見せたモハメド・アリさん(Tinseltown/Shutterstock.com)
6月4日、米国NBCテレビは、プロボクシングの元ヘビー級王者モハメド・アリさんが3日、呼吸器系疾患で入院していたアリゾナ州フェニックスの病院で死去したと伝えた。74歳だった。
闘魂不屈のボクシング・レジェンド、74年の軌跡とはどんなものだったのか。
[an error occurred while processing this directive]カシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアは、1942年1月17日、オハイオ河が流れるケンタッキー州ルイビルに生誕。12歳の誕生日に父親がプレゼントしてくれた自転車を盗まれ、ショックを受ける。「自転車ドロボウを見つけたらタダじゃおかない。きっとぶちのめしてやる!」
泣き叫ぶクレイをなだめるように、市の警官ジョンは、ボクシングジムに通うように勧める。初めてグローブを手にするが、わずか8週間でアマチュアデビュー戦に完勝。州大会で6度優勝。弱冠17歳で2年連続の全米大会優勝も。
ベトナム戦争が勃発した1960年、ローマ五輪ライト・ヘビー級の金メダルを奪取してプロデビュー。しかし、故郷のレストランで入店を拒否され、人種差別を受けた悔しさに耐え切れず、金メダルをオハイオ川に投げ捨てる。
「人は世界一のゴミ収集人になれる。世界一のモデルにだってなれる。たとえ何をやろうと、それが世界一なら何も問題はない」
「人間が困難に立ち向かう時、恐怖を抱くのは信頼が欠如しているからだ。私は私を信じる」
この頃、公民権の適用と人種差別の撤廃を求める公民権運動は、アフリカ系アメリカ人(黒人)を決起させる。クレイは、マルコム・Xの思想に共感、黒人のイスラム運動組織ネーション・オブ・イスラムに入信。リングネームをモハメド・アリに変える。
「俺には俺の信じる道がある。他人が思うような人間に俺はならない。俺は俺の道を行く」
「俺は最強じゃない。最強の2倍強いのだ。ただ敵をノックアウトするだけでなく、どのラウンドで倒すかを決められる」
プロ転向後、22歳の1964年、ソニー・リストンを倒して世界ヘビー級王座に。9回防衛に成功するが、25歳の1967年、ベトナム戦争の徴兵を拒否したことから、禁固5年と罰金1万ドルを科せられる。
さらにヘビー級王座とボクサーライセンスも剥奪。だが、良心的兵役拒否を貫き、4年後に最高裁判所で無罪を勝ち取る。
「黒人の徴兵率は30%。白人は10%。なぜだ? 何の罪も恨みもないべトコンに、銃を向ける理由はない。黒人が戦うべき敵はベトコンじゃない。300年以上も黒人を奴隷として虐げ、不当に搾取し続けた白人だ!」
「リスクを取る勇気がなければ、何も達成することがない人生になる。だが、あまりにも順調に勝ちすぎているボクサーは、実は弱い」
3年半余りのブランクを経てリングに復帰し、1971年に世界ヘビー級王座に挑戦するも完敗。31歳の1974年にジョージ・フォアマンを一発大逆転! 8ラウンドKO勝ちして王座奪還。
この歴史的なタイトルマッチは、舞台となったザイール(現コンゴ民主共和国)の首都名にちなみ、「キンシャサの奇跡」と語り継がれる。
「不可能とは、自らの力で世界を切り開くことを放棄した臆病者の言葉だ。不可能とは、可能性だ、通過点だ。不可能なんて、ありえない。IMPOSSIBLE IS NOTHING!」
「蝶のように舞い、蜂のように刺す。奴には姿は見えない。見えない相手を打てるわけがないだろう。敵がパンチを打とうと思った時にもうそこにはいない」
34歳の1976年、「日本武道館 格闘技世界一決定戦」でアントニオ猪木と特別ルールで対戦、引き分ける。ヘビー級タイトルは10回防衛の後、36歳の1978年にレオン・スピンクスに敗れて失うが、リベンジ戦で王座を奪取。39歳の1981年にリングを去る。
蝶のように舞う華麗なフットワーク、蜂のように鋭い左ジャブ、右ストレートが世界を熱狂させた。プロ通算成績は56勝(37KO)5敗。
「俺ぐらいグレートになると、謙虚でいることが難しい」
「50歳になった時、20歳の時と同じように世界を見ている人間は、人生の30年を無駄にしたということだ」