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【連載「病理医があかす、知っておきたい“医療のウラ側”」第5回】

ルーズベルト米大統領を死に至らしめ、米ソ冷戦構造をつくった「迷信」とは?

フランクリン・ルーズベルトは、1945年4月12日、高血圧性脳出血で死去catwalker / Shutterstock.com

 1945年4月12日、米国第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは高血圧性脳出血で倒れ、帰らぬ人となった。戦時中の例外措置として、4期目の米大統領を務め始めてから4カ月目のことであった。

 当日の彼の血圧は300/190mmHg。最高血圧は1年前から200mmHgを超えていた。主治医はなぜ血圧を下げなかったのだろう。

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 答えは2つある。まず、当時はよい降圧剤が存在しなかったこと。その上、「高血圧は治療対象とはならない」というのが医学の常識であったことだ。心臓病学者フライの言によると、「1946年当時は、高血圧の薬物療法はエセ医療と思われていた」。1948年でも、「血圧上昇そのものは特に寿命を短くすることはない」という記述が残されている。

 1930年に発行された代表的な内科学教科書『セシル(第2版)』に記載された高血圧の治療法は、安静、身体療法と(期待度の薄い)フェノバルビタールの投与。当時の「薬」は、前世紀と何ら変わらない、アヘンやワイン、麻酔ガスに過ぎなかったらしい。

 人体に応用可能なβブロッカーであるプロプラノールが見出されたのは、1940年である。自律神経節遮断剤・四エチルアンモニウムの降圧作用が報告されたのは1946年、本格的な降圧利尿剤であるクロロサイアザイドが登場したのは実に1957年のことだ。

皮肉に富むmisnomer「本態性高血圧」

 時代はさかのぼる。1836年、ロンドンのガイ病院には新進気鋭の内科医兼病理医が3人いた。トーマス・ホジキン、トーマス・アジソン、リチャード・ブライトの3人である。ブライトは100例の萎縮した腎臓の病理解剖症例を解析し、半数以上の患者の心臓左室肥大を証明した。そして、「腎疾患では腎血管が損傷を受けて血流が悪くなる。そこに無理に血を流すには、心臓が強く働かねばならない」と唱えた。慢性腎不全は長く「ブライト病」と称されていた。

 19世紀後半になると、ドイツの病理学者たちが「腎障害の代償としての高血圧」の考え方を強く支持した。高血圧を伴う腎病変は「良性腎硬化症」と呼ばれたのだ。こうして、体に絶対に必要な高血圧、すなわち「Essential hypertension(本態性高血圧)」の考え方が定着した。血圧を下げると腎などの重要臓器への血流が悪くなってしまう、だから下げてはならない、という論法だ。

 確かに、高血圧による直接の症状は少ない。高血圧のまま長生きする患者も決して少なくない。だが、ルーズベルトをむざむざ死に至らしめたのは、この迷信だったといえるだろう。「Essential hypertension」の病名は、現在でも用いられる。実に歴史的重みのある、いや皮肉に富む「misnomer(不適切な名称)」ではないか。

 ガイ病院の構内にゴードン博物館がある。ホジキンが初代館長を務めた世界最古の病理博物館である。そこは迫力満点だ。かの三羽烏が170年以上前に自身の手で解剖した臓器がホルマリン漬けでそれぞれ3例ずつ、仲良く展示されている。

 ちなみに「ブライト病」の腎臓は1例だけが腫大している。今で言うアミロイド腎症なのだそうだ。顕微鏡観察が普及していない当時、肉眼所見の記述がすべてであった。この地を訪れたとき、あの終末腎たちが米国大統領の脳出血死につながり、果ては戦後の米ソ冷戦構造をつくるきっかけになったなどとは思いもよらなかった。

参考文献:Comroe JH.Jr.著(諏訪邦夫訳)『続 医学を変えた発見の物語』(中外医学社、新訳第1刷、1998)


連載「病理医があかす、知っておきたい“医療のウラ側”」バックナンバー

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