29歳で夭逝した天才棋士・村山聖(写真は日本将棋連盟より)
「永世7冠」羽生善治名人に6勝7敗、怪童丸と呼ばれた天才がいた。病魔に悠然と対峙し、名人位への難局に満身創痍さながらに果敢に挑んだ不世出の大器村山聖(むらやま・さとし)だ。
1998(平成10)年8月8日、村山は、入院先の広島大学病院で進行性膀胱がんのため永眠。享年29。わずか4gばかり。吹けば飛ぶような王将の駒。吹こうが突こうが揺さぶろうが、一向動じない名人位という急峻な高嶺に薄命を賭けた稀有稀代の棋士、村山聖の奇跡を辿ろう。
[an error occurred while processing this directive]谷川浩司も羽生善治も凌ぐ異例のスピードデビュー!
村山聖は1969(昭和44)年6月15日、広島県安芸郡府中町に生誕。兄姉の3兄姉の次男坊。森信雄七段門下。生涯成績 356勝201敗(うち不戦敗12)、勝率0.639。九段(追贈)。
5歳。腎臓の難病、ネフローゼ症候群が発覚。小学校に入学するも病状が悪化し、広島市民病院の院内学級へ。広島県立原養護学校で6年生の1月まで入院。入院中、父に教わった将棋に没頭。病床で朝から晩まで指し続ける。母が枕辺に買い置いた雑誌『将棋世界』を舐めるように耽読する毎日だった。
10歳。アマチュア四段。11歳。中国こども名人戦で4大会連続優勝。当時のタイトルホルダーの森安秀光(棋聖)を飛車落ちながら破る大金星も。
12歳。小学生将棋名人戦の3回戦で佐藤康光(のち永世棋聖)に惜敗。13歳。中学生将棋名人戦でベスト8。プロ棋士をめざし、名人位が目標に。当時の名人位は谷川浩司。両親は「好きなことをやらせたい」と決意。両親の師匠探しの労が実り、日本将棋連盟広島将棋同好会の紹介で大阪の森信雄四段(のち七段)の愛弟子に。森は「一目で気に入った。好きなタイプ。普通の子ではない」と絶賛したという。
14歳。奨励会に5級で入会。入会後、森は大阪で単身で暮らす病身の村山を親さながらに支える。発熱を繰り返す村山は「40度になったら死にます」と弁解。森は「40度になってない。大丈夫や」と必死に擁護、激励の手を休めない。真冬でも裸足でズック履き。ワイシャツを腕まくりして関西将棋会館を日参する。
17歳。11月5日にプロデビュー。奨励会入会からプロ入りまで2年11か月。闘病のために止むを得ない不戦敗が重なったものの、谷川浩司も羽生善治も凌ぐ異例のスピードデビューとなる。
20歳。若獅子戦決勝、C級1組順位戦で羽生に連敗。羽生は「がんばって昇級してください」と声をかける。21歳。若獅子戦決勝で佐藤康光を破り、棋戦初優勝を果たす。
23歳。最初で最後のタイトル戦となる第42期王将戦で谷川浩司王将と七番勝負に挑むも、0勝4敗で完敗。辛酸を舐めるが、順位戦ではB級1組へ昇級。関西から関東へ移籍。遊びも覚え、先崎学、郷田真隆ら棋士仲間と麻雀、酒を楽しみ、人生を語り合い、結婚願望も口にする。「聖」の字から「ひじりちゃん」のニックネームも。
25歳。4月、A級八段。名人位が射程に入る。27歳。第30回早指し将棋選手権で優勝。新人棋戦以外での唯一の勝利となる。2月の竜王戦1組の1回戦で羽生に辛勝、通算対戦成績を6勝6敗の互角に。