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【シリーズ「病名だけが知っている脳科学の謎と不思議」第12回】

仏が先駆け英が追随した「ジャクソンてんかん」の医学的研究、病名のジャクソンって誰なのか?

1863年に「ジャクソンてんかん」の論文を発表したイギリスのジョン・ヒューリングズ・ジャクソン(写真はウィキペディアより)

 有史以来、人類は目に見えない疫病の恐怖におののきながら生きてきた。なかでも「てんかん(癲癇)」は、古今東西、忌まわしい不治の奇病と恐れられてきた。

 紀元前200年頃、秦の始皇帝の時代に編纂された中国最古の医書『黄帝内経大素』に癲癇の病名が見える。癲(てん)は「転倒する病」、癇(かん)は「ひきつけ、けいれん」を意味することから癲癇となった。文字通り「倒れる病気(フォーリング・シックネス)」なのだ。

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 時代は下る。フランスのルイ・フランソワ・ブラヴェが「片側てんかん」の論文を発表し、「ブラヴェ痙攣」を報告したのは1827年。その36年後の1863年、イギリスのジョン・ヒューリングズ・ジャクソンは、「ジャクソンてんかん」の論文を発表、てんかんを初めて医学的に解明する糸口を拓いた。

 仏英両国は、歴史的にも文化的にも敵対と和合を重ね、政治的にも血縁的にも深い関わりを保ってきた。フランスが先駆け、イギリスが追随したてんかんにまつわる顛末も、仏英史ならではの1ページのように見える。

てんかんの病理研究、神経学の発展に多大な功績

 病名に自分の名前が刻印され、後世まで受け継がれる栄誉は大きい。てんかんの栄冠を勝ち取ったのは、フランスのブラヴェではなく、イギリスのジャクソンだった。先駆けても後塵を拝する。時代の皮肉とはいえ、まれな事態ではない。

 1835年、ジャクソンは、ヨークシャーのグリーン・ハマトンに生誕。わずか15歳で開業医のウイリアム・アンダーソンに弟子入りし、修業を積む。2年後、ヨーク医学校に入学、化学、産科学、解剖学、病理学、植物学、法医学を修める。水を吸う海綿のように、知識は若き青年の心をたぎらせ、逞しい血肉になった。

 1863年、28歳の時、国立神経障害病院や国立麻痺てんかん病院の勤務医になるものの、精神障害患者たちとソリが合わず、回診も手薄になる。しかし、臨床観察、事例研究、検死解剖、脳検査に情熱を注ぎ、ジャクソンてんかんの事例を集約した研究論文を発表。神経学の体系化に大きく貢献、ジャクソン学派の開祖となった。

 ジョン・ヒューリングズ・ジャクソン。ジョンもジャクソンもごくありふれた名前だが、ヒューリングズは高貴な母方の苗字を借用したらしい。

 臨床医にはちょっと不向きだったが、1878年、43歳で王立協会フェローに就任、神経学雑誌『ブレイン』を創刊。1888年、53歳で英国神経学会の初代会長にも着任。右手に社会的なステイタスを、左手に神経学会の厚い信任をたぐり寄せた。

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