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【シリーズ「血液型による性格診断を信じるバカ」第4回】

馬鹿な信仰〝 血液型性格論〟はこうして形成されてきた~戦後ブームを検証!

未だに信じられる血液型性格論!?shutterstock.com

 最近のこと、近江、越前、伊豆に旅行したところ、至るところの神社に「血液型占い」のお神籤の自販機があるのに驚いた。ABO式の自分の血液型と誕生月が一致する所にあるコイン入れに100円硬貨を入れると、お神籤が出るようになっている。

 血液型ブームは「占い」の領域にまでひろがっていて、これを支えているのが主に若い世代だ。

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血液型性格論ブームはまるで風疹の流行と同じ

 風疹という病気は風疹ウイルスによる感染症で、主に子供がかかる病気である。かつては「5〜9年ごと(1976、1982、1987、1992年)に大流行する」のが特徴だった。精神的な文化現象にも同じように「大流行」がある。「血液型と性格」についてのブームはその典型だ。第一次流行は1930年代に起こり、社会問題にまで発展した後急速に廃れた。
 
 戦後の第二次ブームは30年後、高度経済成長期の1970年代に起った。これが1980年代に多くの批判を浴びて衰退した後、30年後から再び復活し、現在まで継続している。戦前の「血液型と気質」の流行とその終焉を知っている世代は、戦後の第二次ブームに眼もくれなかった。

 第二次ブームの終りを知っている人たちはもう50歳以上になっているが、彼らは最近の第三次ブームには無関心だ。今のブームの担い手はやはり若い人たちだろう。

 「血液型性格」論のたわいなさを一度知ってしまえば、風疹感染と同様に免疫力がついて、二度と感染しなくなるようだ。つまり「精神免疫力」とでも呼ぶべきものがある。風疹と違い流行間隔が30年と長いのは、世代が入れ替わって、免疫力のない新しい世代が育つまでに年数がかかるからだろう。

能見と鈴木が牽引した血液型性格論の戦後ブーム

 戦後の「第二次血液型と性格」ブームについて、振り返ってみよう。1960年から日本の「高度経済成長」が始まった。当時の池田勇人首相は「10年間で所得を倍増する」と公約し、事実、年率10%を超える経済成長が達成され、それに見合った賃上げが行われたたから、1970年には個人所得が3倍になった。

 食べることや着るものへの心配がなくなり、日本人の生活に初めて余裕が生まれた。「血液型・性格相関論」が復活したのは、まさにこの頃である。

 1970年代に入って、能見正比古(のみまさひこ:1925〜81)『血液型でわかる相性』(青春出版社、1971)、鈴木芳正『血液型性格学』(産心書房、1974)という本が相次いで出版され、大きな話題を呼んだ。これが第二次血液型ブームの出発点だった。

 能見は金沢市出身で、1925年中国の奉天(現瀋陽)市の生まれ。東京女子高等師範学校に通っていた1歳年上の姉から、「血液型と気質」の関係について、中学生の頃に聞かされたという。東京女子高等師範は、第一次ブームの立役者である古川竹二が在職していた学校でもあり、姉は古川説に相当のめり込んでいたようだ。

 能見は、その頃姉が考えたという「夫婦の最良の相性関係」という血液型組合せを、後に著書で紹介している。その後、旧制第四高校(金沢)を卒業し、東京帝大工学部電気工学科に進んだ。大学では寮に入り、寮の委員長になった。戦争中のことで、寮生名簿には寮生の血液型が記載してあった。

 名簿をみながら寮長としてもめごとの処理にあたっているうちに、血液型と気質の間に相関があるという古川竹二の説を確信したという。

 卒業後、能見は新制東大法学部政治学科に入学し直した。法学部在学中に、ラジオ放送に関心をもつようになり、放送作家への道を進むことにし、大学を中退した。その後、雑誌社や出版社の勤務をへて、1971年『血液型でわかる相性』を書いたところ、売れ行きがよかったことから、独立して作家活動に入った。

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