映画『恋人はセックス依存症(Thanks for Sharing)』(公式ホームページより)
「セックス依存症」と聞くと、どのようなイメージを持つだろうか? セックスは、人生にとって極めて大事なもので種の存続にも欠かせない。にも関わらず、時に常軌を逸した欲求に捕われると、生活を破綻させる原因にもなる――。
本来素晴らしいものであるはずのセックスが、なぜ病理として扱われてしまうのか。
[an error occurred while processing this directive]映画『恋人はセックス依存症』が問うもの
『恋人はセックス依存症』という映画がある(日本では劇場未公開)。DVDのパッケージでは、映画『アイアンマン』のヒロインも演じたグウィネス・パルトロウが主演のように見えるが、実際の主人公はマーク・ラファロが演じるアダムという男性である。
『恋人はセックス依存症』というタイトルは、一見コメディ映画風だが、これは日本の配給会社の苦肉の策のようで、実際の原題は『Thanks for Sharing』。「分かち合うことへの感謝」という意味だろうか。
この映画には、セックス依存症のカウンセリング・グループが登場する。参加するメンバーはそれぞれセックスに対する問題を抱えている。医師のニールは、地下鉄で性器を他人にこすりつけて裁判所に治療を命じられた。美容院で働く女性のディーディーは、男をセックスの対象としてしか見られない。4歳のときにいとこに体をこすりつけ、12歳のときに隣の男の子の童貞を奪った。親友の父親と寝て親友を失ったこともある。
このグループのメンバーは皆で節制を誓う。真面目な付き合い以外のセックスはもとより、自慰も禁止。30日節制を保てた人にはメダルが送られる。
ニールは実は自制を保てていない。街中でも薄着の女性が気になって仕方ないばかりか、上司のスカートの中を盗撮して解雇されてしまう。一方、主人公のアダムは、5年間節制を保っている。アダムはパーティーで知りあったフィービーと交際を始める。だが、セックス依存症の過去が明らかになると、ふたりの間には不穏な空気が流れ始める。
アダムは告白する。「かつての自分は自慰を我慢できなかった。片っ端から女性を口説いたし、一夜限りの関係も多かった。複数の女性や娼婦との関係も。自分を見失ってしまうことも珍しくない」。そんなアダムに、フィービーは「また元のようにならないと言える?」と疑念を持ちはじめる。
この映画に登場する人は、誰もが何からの依存を抱えている。ドラッグ依存やアルコール依存も登場する。アダムに「私は健康的な人でないと付き合えない」と話すフィービーすら、アダムからこんな言葉を投げかけられる。
「君は健康で僕は病的か? あのトレーニング量と食事制限でよく言う」。フィービーはトライアスロンのトレーニングを行なうスポーツウーマンなのだが、それすらも見方によっては依存的なのだ。
生活が破綻しなければ依存ではない?
この映画はユーモラスな部分もあり、最後は少しはほっとできる結末になっている。映画の紹介はこれくらいにして、2001年に出版された書籍『性依存 その理解と回復』(吉岡隆・高畠克子/中央法規出版)より、性依存の概念を規定した箇所を引用してみたい。
「依存症とは、依存対象によって社会生活が破綻した状態をいう。適度な依存のレベルを超え、過剰依存になってしまったことが問題なのだ」「性依存とは、痴漢やレイプ、わいせつ行為、セクシュアルハラスメント、のぞき、盗撮、買春など条例や法に違反するものだけではない。不倫や風俗通いが止まらないなど、違法ではないものもある。(中略)本書では生活に破綻を来している性的問題行動のすべてをその概念に入れている」
逆に言えば、生活に破綻を来していなければ、それは性依存ではないということなのだろうか。『恋人はセックス依存症』のDVDのアマゾンレビューには、こんな声があった。「これでセックス依存症なら、日本人は皆セックス依存症だね」。
作家の佐藤優氏によれば、日本ほど性風俗業界が発達している国はないという。また、「浮気は男の甲斐性」などというように、男性が性的に盛んにふるまうことを許容し、時に賞賛するような風潮すらあった。そのような日本で「セックス依存症」が深刻な社会病理として位置づけられるとすれば、それはどのような現実を受けてのものだろうか。
次回以降、古今東西のさまざまな事例を引きながら、現代日本の「セックス依存症」事情についても、徐々に解説していきたい。