美空ひばり52歳の生涯(写真は『美空ひばりベスト 1964~1989 (紅盤)』より)(depositphotos.com)
今年は日本を代表するディーバ・美空ひばりの生誕80年。ひばりを偲ぶイベントや番組が多い。
『美空ひばり生誕80周年記念だいじょうぶよ、日本!ふたたび(熊本地震・東日本大震災復興支援チャリティーコンサート』(4月5日)には五木ひろしをはじめ、AKBグループ、EXILE、氷川きよしら豪華アーティスト全22組が集結。9月17日にはフジサンデースペシャル>『美空ひばり生誕80周年 愛と伝説と歌と芝居と…』がオンエアされた。10月17日には豪華本『美空ひばり プレミアムブックス~映像の記憶に励まされて~』が発売される予定だ。
1989(平成元)年6月24日午前0時28分、美空ひばりが華々しくも苦悩に満ちた52年の生涯の幕を降ろした。死因は「特発性間質性肺炎」の悪化による呼吸不全。なぜ、ひばりは絶唱に命を捧げたのか?
「私はただ、歌が好きなだけ」――。ステージでもスクリーンでも、数知れない絶賛と栄誉を一身に受け、日本人の心に沁み入る名曲を歌い紡いできたひばり。
だが、「月に叢雲、花に風」のたとえ通り、1980年代に入ると、40歳代を迎えたひばりの前途に暗雲がた垂れ込める。知己・親友や肉親たちの急死が相次いだからだ。ひばり44歳の1981年、実母・喜美枝は転移性脳腫瘍に襲われ68歳で他界。父親代わりになり、ひばりを可愛がった田岡組組長・田岡一雄は死没。1982年、大親友の江利チエミは45歳で夭逝。1984年、「銭形平次」を18年間も好演した大川橋蔵も55歳で永眠。
息つく間もなく、ひばりの2人の実弟、かとう哲也(1983年)と香山武彦(1986年)も42歳の若さで後を追う悲運に見舞われる。さらに1987年、親交が深かった昭和の大スター、鶴田浩二(享年62)と石原裕次郎(享年52)も次々と不帰の人となる。
失う悲痛に耐えかねて、酒とタバコに手を染め……
ひばりは、1977年にかとう哲也の実子・加藤和也を養子縁組する。だが、折り重なるように落命する人たちを失う悲痛に耐えかねて、酒とタバコに手を染め、か細い体を蝕まれる。
47歳、1985年5月、ひばりの誕生日記念ゴルフコンペのプレー中に原因不明の腰痛を訴える。49歳、公演先の福岡市で極度の体調不良に陥り、緊急入院。重度の慢性肝炎(肝硬変)と両側特発性大腿骨頭壊死症と診断され、入院療養。明治座の公演中止を発表。
「今はただ先生達のご指示をしっかり守り、優等生患者として毎日を過ごしています。あわてない慌てない、ひとやすみ一休み。もう一度歌いたいという信念が消えません。ひばりは生きております」
だが、退院後も肝機能は回復せず、大腿骨頭壊死の治癒も捗々しくなく、病状は一進一退。50歳の1988(昭和63)年4月、東京ドーム復帰公演でステージに立つ。痩せ衰えた体をかろうじて支え、脚の激痛に耐えながらも全39曲を熱唱。体調は悪化していたものの、ドーム公演後の10か月間、13カ所の全国公演、テレビ番組収録などに精力的に挑む。
51歳、1988年12月25日、26日は帝国ホテルで生涯最後のクリスマスディナーショー。年が明け、1989年1月7日に昭和天皇が崩御し、元号が「昭和」から「平成」へ移り変わった日、ひばりは「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに」と短歌を詠む。
東京ドーム公演で復帰!名唱『川の流れのように』をリリースするが
「明日の自分は、今日の自分に勝ちます」――。3日後の1月11日、『川の流れのように』のシングルをリリース。だが、特発性間質性肺炎はかなり進行し、ひばりを苦しめる。
2月6日の福岡サンパレス公演で、持病の肝硬変の悪化によるチアノーゼ状態になるが、コンサートを強行。1100人の観衆を前に全20曲を熱唱。翌2月7日、北九州市小倉にある九州厚生年金会館での公演が、生涯最後のステージになる。
会場の楽屋では、酸素吸入器と医師が控える。肝硬変が急変すれば、食道静脈瘤が破裂し、吐血寸前の病態に追い込まれる。以後、横浜アリーナのこけら落とし公演に執念を燃やすが、自宅療養を余儀なくされる。
だが、3月21日にラジオのニッポン放送の『美空ひばり感動この一曲』と題する10時間ロングランの特集番組に自宅から生出演。番組終盤に生涯最後のコメントを残す。
「ひばりに引退は有りません。ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ」