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【シリーズ「病名だけが知っている脳科学の謎と不思議」第10回】

自分や家族が偽者の〝そっくりさん〟と入れ替わったと妄想する「カプグラ症候群」とは?

自分や家族が瓜二つの替え玉に入れ替わっている?(shutterstock.com)

 1918年8月8日、フランス・パリ――。マティルド・ムーラン夫人(53)は、パリ警視庁に駆け込むなり、半狂乱になって叫んだ。

 「子ども7人が強盗団に誘拐された。家の地下室に閉じ込められているのよ! 子どもたちの泣き声が止まない、早く助けて」

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 その直後、ムーラン夫人の身柄は精神病院「メゾン・ブランシェ(白い家)」に移された。彼女は、精神科医ジャン・マリ・ジョゼフ・カプグラの目をじっと見据えて訴え続ける。

 「夫と娘の姿がどこにも見あたらないの。二人に替わって、そっくりさんが急に現われたわ。私を騙そうとしているに違いない!」

 古典的名著『解釈妄想法』を1909年に上梓していたカプグラと助手のルブール・ラショーは、1923年、臨床精神医学学会でムーラン夫人に見られる「そっくりさん幻想(l'illusion des sosies)」の症例を詳細に報告して注目された。

 身近な家族、恋人、親友が瓜二つの分身(ドッペルゲンガー)に入れ替わって見える妄想に陥る精神障害、それが「そっくりさん幻想」だ。「替え玉の幻想」「ソジーの錯覚」とも呼ばれる。

 1929年に精神科医レヴィ・ヴァランシが「カプグラ症候群(Capgras Syndrome)」の呼称を提唱して以来、多くの症例が知られている。当初は女性に多く見られたが、1936年に精神科医マーレイ・J.R.が男性例を報告し、性差については現在も論争がある。

娘はまた別の娘と入れ替わり、次々と別の分身に変身

 ムーラン夫人の「そっくりさん幻想」は、1914年のある日、突然始まった。娘が認識できず、誰かに誘拐され、別の替え玉を置いて行ったと信じる。しばらくすると、娘はまた別の娘と入れ替わり、次々と何度も別の分身に変身していった。

 ムーラン夫人は、精神病院「メゾン・ブランシェ(白い家)」でも、自分やカプグラの分身が見えた。「私の分身は見舞い客を無断で追い散したり、私が注文した品物を横取りする。カプグラ先生の分身は、診断や指示を一から取り消すから、私はひどく混乱している」。ムーラン夫人の脳裏に、分身の分身が次々と増殖しているように見えた。

 だが、よく観察すると、ムーラン夫人の見る分身はすべて家族や知人だ。ムーラン夫人は誰の分身かは分かっている。顔の認識不能ではなく、同定不能の障害ではないか? つまり、愛する相手が愛してくれないので、深い疎外感に苛まれ、変質的な疑念に取り憑かれているのではないか?

 ところが、「あれは私が愛した人では断じてない、別人に違いない。誰かが誘拐して分身を替え玉にして差し出した違いない」という妄想に追い込まれ、妄想は限りなく深まる。

 カプグラが診察した他の患者の例を見よう――。

 一諸に暮らしている母親は「母親のフリをしている偽物だ」と母親を一生拒み続けた患者。「恋人がロボットか宇宙人に取って替わっていなくなった」と頑迷に確信する患者。兄と両親が分身だと分かるや、何年も口を閉ざして引きこもった患者。鏡の中に見知らぬ男の顔が見え、「おまえは何者だ? お前は絶対、俺ではない!」と、鏡の中に自分の分身を見ていた患者もいる。

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