MENU

【シリーズ「傑物たちの生と死の真実」第5回】

謎の多い源頼朝の死......脳卒中、落馬死、糖尿病、暗殺、祟りで殺された亡霊説も!

源頼朝の銅像(鎌倉・源氏山公園)shutterstock.com

 12世紀末、平安の世が傾き、新しい次代の胎動が始まっていた。平家打倒、破竹の連戦連勝、関東・東北地方の平定、征夷大将軍の拝命、鎌倉幕府の開府......。希代の武将、源頼朝の生と死を追ってみよう。

 「一人当千という事、一人して千人にはいかでか向うべき。なれども、はかりごとをよくし、居ながら多勢を滅ぼすを名付けたるなり」(一人当千と言うが、一人で千人と戦うことなどできない。一人当千とは、知恵を働かせ、自ら戦場に出ることなく、大軍を打ち負かすことをいう)。

[an error occurred while processing this directive]

 「一人当千」とは一人で千人を相手にできるほど強く勇猛な武将のあるべき姿のこと。「一騎当千」ともいう。一人当千こそ、天の時、地の利、人の和に恵まれた天地人、頼朝の武勇剛胆を物語る基本戦略だった。

 頼朝は、久安3年(1147年)、清和天皇を祖とする河内源氏の源義朝の三男坊として、尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)に生まれる。義朝が平治の乱で敗退するや、伊豆国へ配流。やがて伊豆で平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を根城に関東を制圧、源義仲らと平氏を一気呵成に打倒した。戦功のあった末弟・源義経を追放後、諸国に守護と地頭を配して勢力を温存し、奥州藤原氏を滅亡に追い込み、全国を平定。建久3年(1192年)、後鳥羽天皇から征夷大将軍を拝命し、鎌倉幕府を開府した。

頼朝は落馬死か? 暗殺死か?

 建久8年(1198年)12月、頼朝は、相模川の橋供養に臨席した帰路に落馬し、翌年1月13日に死去したと伝わる。頼朝の死は不審な点が少なくない。

 頼朝から第6代・宗尊親王(むねたか・しんのう)までの出来事を記した正史『吾妻鏡』を見ると、頼朝の死から前後3年間の記録が欠落している。頼朝の落馬死が『吾妻鏡』に書かれたのは、死後13年後。武家の棟梁の落馬死が不名誉なら、記録を残したのはなぜか?

 頼朝の死の前後、朝廷内は親幕派と反幕派が激しく対立していた。頼朝の死の3年前、反幕派の土御門通親(つちみかど・みちちか)が政変を起こして親幕派を一掃している。以後、奇怪な事件が続く。

 通親は頼朝の長女・大姫の病気回復を祈祷する験者を鎌倉に派遣するが、大姫は急死し、次女・三幡姫も後を追うように急死する。親幕派の一条能保・高保親子も急逝。畠山重保、梶原景時、稲毛重成など、頼朝を取り巻く重鎮も次々と不審死した。

 頼朝らを謀殺した首謀者は通親なのか? だが通親も、頼朝の死から3年後に急死。頼朝が昇天してからは、頼朝の弟・阿野全成、比企一族は次々と闇に葬られ、実権は北条氏に移る。

 ということは、頼朝の死を影で画策したのは、朝廷工作に失敗した頼朝の政治能力を見限った北条時政や政子なのか?

脳卒中で落馬?落馬して脳卒中?糖尿病が祟って突然死?

関連記事
アクセスランキング