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【シリーズ「傑物たちの生と死の真実」第4回】

尊厳死のあり方に一石を投じた昭和天皇の最期――がん告知や延命処置は適切だったか?

昭和天皇は1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分に崩御された shutterstock.com

 1945年(昭和20年)8月15日、正午。蝉しぐれが降り注ぐ炎天下。誰もが身を固くして、うやうやしく頭を垂れていた。昭和天皇の玉音放送(終戦の詔勅)が、ラジオから訥々(とつとつ)と流れる。

 「朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」(私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越え、未来のために平和な世界を切り開こうと思う)

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 徴兵、戦地、転戦、玉砕、疎開、買い出し、空襲、沖縄、原爆......万の人に万の記憶が胸をよぎる。戦争は終わった! 平和になる! 慈雨のような喜びをだれもが噛みしめた。

 2015年、戦前・戦中・戦後を生き存えてきた人にとって、長く暑く忘れがたい70年目の夏が来た。だが、日本人の8割(約1億203万4000人)は、戦争を知らない。

 終戦のとき、昭和天皇は、国民に向けて平和への願いを四首の歌に込めた。側近の木下道雄侍従の『宮中見聞録』に収録されている。

 爆撃に たおれゆく民の 上をおもひ いくさとめけり 身はいかならむとも
 身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて
 国がらを ただ守らんと いばら道 すすみゆくとも いくさとめけり
 外国(とつくに)と 離れ小島に のこる民の うへやすかれと ただいのるなり

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