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【シリーズ「傑物たちの生と死の真実」 第3回】

豊臣秀吉の死因は、脚気、脳梅毒、大腸がん、それとも毒殺か?

豊臣秀吉は1598年8月18日、享年62で亡くなった

 戦国時代、天下統一に導いた3人の戦国大名を三英傑という。織田信長(1534年〜1582年)、豊臣秀吉(1537年〜1598年)、徳川家康(1542年〜1616年)だ。江戸後期の肥前国平戸藩大名、松浦静山は随筆集『甲子夜話(かつしやわ)』に、三英傑にまつわる有名な三句を残した。

 「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥(ほととぎす)」――。高飛車で強引な印象の信長だが、がまん強い努力家でもあった。10代の頃、大うつけ(ばかもの)と罵られながらも耐え忍び、寝食を忘れるほど長い槍を作ることに没頭。新戦法を編み出したアイデアマンだった。

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 「鳴かぬなら鳴かせてみよう時鳥(ほととぎす)」――。積極性や進取の気性が強烈な秀吉だが、常に計算高く、人たらしに長けた人だった。美濃を攻略した時、秀吉は敵の武将を味方につける。信長は武将を殺せと命じる。だが、秀吉は武将に「すぐに逃げられよ」といい、自ら刀を捨て、万一の時は自分を人質にと申し出る。武将は感激して逃げる。権謀術数で味方に取り込む人の良さ、度量の大きさ、人たらしの巧みさは、人の心理を読む秀吉ならではの面目躍如を思わせる。

 「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥(ほととぎす)」――。がまん強い性格に見える家康だが、挑発に乗って大敗した戦いぶりや血筋から見ても、短気質だったかもしれない。だが、じっくり時間をかけて忠誠心の強い部下を育てる、先見の明を備えた戦略家だった。

 三英傑の死も三人三様。信長は暗殺、家康は天ぷらの食べ過ぎか胃がん。では、秀吉の最後は?

脚気か?脳梅毒か?大腸がんか?毒殺か?

 1598年7月、自分の死が近いことを悟った秀吉は、家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家に宛てて遺言を送る。「返すがえすも秀頼のこと頼み申し候。五人の衆頼み申し候。委細五人の者に申しわたし候。名残惜しく候。以上」。息子・秀頼の行く末を案じる秀吉。家康に秀頼の後見人になるように依頼する。「露と落ち 露と消へにし わが身かな 浪速(なにわ)のことは 夢のまた夢」。辞世の句と伝わる言葉尻にも、無念の思いが滲む。

 晩年の秀吉を追って見てみよう。1582年、信長の暗殺後、勝家や家康との確執や争いを経て権力を奪取。1585年、大阪城を築城。最高位の関白太政大臣に上り詰め、朝廷から豊臣の姓を授与される。朝廷の臣となった秀吉は、京都に豊臣家の本邸・聚楽第を建立し、執務を行う。

 1589年、側室・淀殿は、嫡男・鶴松を出産。1590年、小田原城攻めの時に参戦した伊達政宗を配下におさめ、ついに全国統一。だが、やがて、秀吉の行く手に暗雲が立ちこめる。

 1591年、鶴丸と弟・秀長が病死。千利休の切腹。1592年、二度の朝鮮出兵の惨敗。淀殿が第二子・秀頼を出産するが、養子の秀次は切腹。キリシタンの迫害や弾圧。地震による伏見城の倒壊。豊臣家の勢力は、日に日に音をたてるように弱体化。1598年3月、醍醐三宝院で盛大な花見を催した後、体調を崩して床に伏す。5月以降、下痢、腹痛、食欲不振、手足の激痛が続く。痩せ衰えて病状は悪化。漢方薬も効果がなく、失禁もあった。8月18日、永眠。享年62。

 死因は何か? 下痢、腹痛や急激な痩せ細りなどから、大腸がんや赤痢などが疑われる。加齢による認知症、栄養の偏りによる脚気、脳梅毒、尿毒症、女好きの過淫が祟った腎虚(精力減退)など、原因は不明だ。

 18世紀に朝鮮で編纂され、さまざまな私撰歴史書を集大成した『燃藜室記述(ねんれいしつきじゅつ)』に、「秀吉は沈惟敬(しんいけい)によって毒殺された」とある。明の使節だった沈は、秀吉に朝鮮出兵を断念させたかったが、沈が来日したのは秀吉が死亡する2年前なので、あり得ない。その他、キリシタンの迫害を逆恨みした前田利家による暗殺説もあり、定まらない。

 秀吉の死は、しばらくの間、秘された。だが、民衆の口に戸は立てられない。秀吉の遺骸は、しばらく伏見城中に置かれる。1599年4月、遺骸は伏見城から運ばれ、阿弥陀ヶ峰の山頂に埋葬。朝廷から「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」の神号、正一位の神階を授与される。神として祀られたため、葬儀はとり行われなかった。

 豊臣家の家督は秀頼が継ぎ、五大老と五奉行が秀頼を補佐。五大老と五奉行は、朝鮮からの撤兵を決定。明軍と和議を結び、朝鮮から完全撤退。朝鮮半島の戦乱は、朝鮮に多大な被害を及ぼし、明は莫大な戦費と兵員の損耗によって疲弊、滅亡へ向かう。参戦した西国大名たちの財政は逼迫。秀吉の没後、豊臣政権の内部抗争も激化。関ヶ原の戦いで勝利した家康が台頭すると、1614年の大坂の陣で豊臣家は瓦解した。

 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城......。「障子を開けてみよ。外は広いぞ。負けると思えば負ける、勝つと思えば勝つ。いくら謙信や信玄が名将でも俺には敵わない。彼らは早死してよかった。生きていれば、必ず俺の部下になっていただろう」。奇想天外の立志伝、神出鬼没の武勇伝に彩られ、百姓、足軽から天下人へ上り詰めた秀吉。その数奇な62年の生涯は「戦国一の出世頭」の称号に恥じない。

佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。

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