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【シリーズ「あの人はなぜ死に急いだのか?スターたちの死の真相!」第6回】

大原麗子の死因は「不整脈による脳内出血」? 「ギラン・バレー症候群」と闘った62年の女優人生

画像は『大原麗子メモリー ずっと好きでいて』(講談社)より

 美人を「明眸皓歯(めいぼうこうし)」とたとえる。澄んだ瞳に白い歯。リップサービス(お世辞)でなく、女性なら誰もが垂涎の羨望を抱くプレミア級の賞賛と憧憬――。

 この栄誉と敬愛に値する「素顔の麗人」は誰だろう?

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大原麗子、62年の女優人生

 2009(平成21)年8月6日午後7時ごろ、連絡が取れず不審に思い、警視庁成城警察署に通報した弟・政光と数名の署員らは、東京都世田谷区の自宅2階の寝室のベッドの上で仰向けのまま息絶えた大原麗子を発見する。右手のか細い指先から15cm先に転がった携帯電話も沈黙を守っている。行政解剖の結果、死亡推定日は8月3日、死因は「不整脈による脳内出血」と判明。 享年62。

 8月7日午後、遺体は遺族に引き渡され荼毘に付される。翌8日、親族、友人、元マネジャーなど数人だけが参列して自宅で密葬を執行。祭壇にデビュー当時の写真9点、人物画4点のほか、美空ひばりに贈られたディレクターズチェア。森光子、浅丘ルリ子らの献花、高倉健の弔電がある。

 寝室のDVDプレイヤーの中に高倉と共演したテレビドラマ『チロルの挽歌』のDVD、遺品の中に高倉の記事だけをまとめたスクラップ。大きな自筆でこうある。「(健さん)好きです。尊敬しています」――。

 また、遺品を整理すると、映画の場面ごとに細かく立ち位置をメモしたり、セリフを自分なりに書き換えた台本が幾本もあった。弟・政光は「姉の夢は、監督・脚本から主演までをこなすことだったと思います」と述懐する。

 8月23日、青山葬儀所で「お別れの会」。元夫の渡瀬恒彦と森進一のほか、八千草薫、池内淳子、徳光和夫、加藤和也、井上順、堺正章、松原智恵子、音無美紀子、浅野ゆう子、中村雅俊らが参列。大原が実姉さながらに慕った浅丘は弔辞を送る。骨折した大原を見舞いに訪れた時、大原は「早く会いに来てほしかった!」と抱きついて怒り、号泣する。

 「あなたがどんなに私のことを拒否しても、姉として、あなたをちゃんと受け止めてあげるべきだったのです。優しく、後ろから背中をさすってあげればよかったんです。本当にごめんね麗子、ごめんなさい」(浅丘ルリ子「追悼・大原麗子 わが妹麗子への手紙 弔辞全文」『文藝春秋』2009年10月号)。

 参列しなかった高倉は、11月に墓参。墓所を掃除し、30分以上、大原に語りかけ、その後も墓参を絶やさない(「nikkansports.com」2010年8月4日/「スポーツ報知」2011年8月1日)。

 墓所は世田谷区の妙壽寺。戒名は「花香院麗風妙舞大姉」。

原因は神経疾患「ギラン・バレー症候群」の再発か?

 大原の急死の死因は謎を深める。なぜか?

 29歳、神経疾患である「ギラン・バレー症候群」を発症(鴨下信一「追悼・大原麗子 長く愛された『女優の素顔』」『文藝春秋』2009年10月号)。47歳、「乳がん」の手術を受ける(野村昌二「大原麗子さん、死亡数日後に発見」『AERA』2009年8月17日号)。

 53歳、1999(平成13)年11月から翌年にかけてギラン・バレー症候群が再発したと発言し、芸能活動を休止。休止後も親交の深かった作家の橋田壽賀子や俳優の山下真司と連絡を欠かさない。

 61歳、2008(平成20)年11月に足元がふらつき、自宅で転倒。右手首の骨折と膝の打撲傷を負う(野村昌二「大原麗子さん、死亡数日後に発見」『AERA』2009年8月17日号)。ギラン・バレー症候群の影響で身体のバランスを崩したと報道される。

 だが、ギラン・バレー症候群を患った演出家の鴨下信一や、みわ内科クリニックの三輪隆子院長は、再発を疑問視する(前掲書)。弟・政光も再発は姉の思い込みだったと強く否定する(『週刊新潮』2009年10月15日号)。

 2009年7月5日、赤羽の実家で弟・政光は大原と最後に顔を合わす。血色も体調も良好そうに見える。大原は復帰をめざしつつ「月1回の通院は絶対欠かさないの。筋トレ、リハビリにも汗を流してるのよ!」と、あっけんからんと笑う。

 急死ひと月前の大原は、活力や希望に満ち満ちて生きていたはずだ。今や、その死の真相は誰も知ることはかなわないが……。

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