キューバの革命家カストロ、90歳で死す(写真は1989年に撮影されたもの)(shutterstock.com)
「人間にとって最も重要な資本は金ではない。人間こそが、最大の資本だ。たとえ一人になっても、理想のために戦い続ける」熱血の革命家フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルスが11月25日に逝去した。その90年の生涯は、ひたすら苦闘に明け暮れ、筆舌に尽くしがたい。
キューバを社会主義国家に変貌させたキューバの英雄
カリブ海に抱かれた大アンティル諸島に横たわる社会主義国家、キューバ共和国。東にハイチとドミニカ、南にケイマン諸島とジャマイカ、フロリダ海峡の北145kmにアメリカフロリダ州が迫る。南北アメリカ大陸、ヨーロッパとラテンアメリカを結ぶ交易の要路にあることから、「カリブに浮かぶ赤い島」「アメリカ合衆国の裏庭」などと俗称される。
1926年8月13日、フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルスは、マヤリ近郊のビランに生誕。父はスペイン移民で裕福な農場主アンヘル・カストロ・イ・アルヒス。イエズス会の学校で教育を受け、野球に熱中。18歳、ハバナ大学で法律を学びつつ、革命反乱同盟で活動。22歳、コロンビアのボゴタ暴動に参入。大学を卒業後、弁護士として貧困救済に奔走する。
[an error occurred while processing this directive]「私はモンカダ襲撃のころと、革命家としては何も変わっていない。ただ肉体的なエネルギーは衰えるものだから、意志の力を強くしなければならない。意志の力がなかったら、マラソンでも決してゴールできないだろう。ゴールが近いか遠いかは問題ではないのだ」
1959年にキューバ革命が成就、638回の暗殺未遂事件はギネス記録
26歳、武装勢力を組織し、130名の仲間とともにモンカダ兵営を攻撃、逮捕され投獄。獄中で『歴史は私に無罪を宣告するだろう』を執筆。29歳、メキシコに亡命後、アメリカに移住。フルヘンシオ・バティスタ将軍が率いるクーデターが勃発。30歳、グランマ号でチェ・ゲバラら「7月26日運動」のメンバー82名とキューバに上陸。生き残り18人はマエストラ山脈へ退き、バティスタ政府とのゲリラ戦を展開する。
フィデルの軍は、民衆の支持を得て、800人以上の勢力に拡大。32歳、1959年1月、フィデルの軍は首都ハバナに迫る。バティスタと次期大統領カルロス・リベロ・アグエロは国外に亡命。フィデルの軍はハバナを制圧し、キューバ革命が成就する。34歳、ニューヨークでの国連総会で約4時間半に及ぶ初演説を行う。
容共的と非難するアメリカとの友好関係を模索するが、ソビエトに接近。チキータなどの大企業の農園やハバナに立ち並ぶカジノホテルなどのアメリカ企業の資産の接収と国営化を推進するや、アメリカはキューバと断交と禁輸措置を発動。かたやソビエトはサトウキビと石油のバーター貿易によってキューバを支援。だが、カストロ体制を嫌う12万人以上のキューバ人がマイアミに亡命する。
「革命家は年金をもらってまで生きるようなことはしない。私はマルクスやエンゲルスやレーニンと一緒に地獄に落ちるだろう。地獄の熱さなど、実現することのない理想を持ち続けた苦痛に較べれば何でもない」
アメリカはカストロ政権を転覆する「ブルータス作戦」などの暗殺計画を遂行するが、すべて失敗に終わる。CIAなどに計画された638回の暗殺未遂事件はギネス記録だ。34歳、1961年4月のピッグス湾事件でアメリカ侵攻軍が敗退すると、「キューバ革命は、集団指導体制による社会主義革命である」と高らかに宣言する。
36歳、1962年10月、核戦争の危機に瀕したキューバ危機が起きる。米ソ間の緊張が高まり、キューバとアメリカの対立は決定的になるが、ラテンアメリカ諸国、中国、ヨーロッパ諸国、カナダとの友好関係は深まる。1989年に冷戦が終結。1991年にソビエトが崩壊する。
「防弾チョッキは着ていないよ。モラルってチョッキは着ているけどね。これがあれば強い」