シリーズ「傑物たちの生と死の真実」第6回

坂本龍馬はADHDだった? 持病は梅毒、アルコール依存症、肝炎、マラリアも!?

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1867(慶応3)年11月15日、享年31で凶刃に倒れた坂本龍馬の持病とは?(shutterstock.com)

 1835(天保6)年、坂本龍馬は、土佐藩郷士の坂本家に兄と3人の姉をもつ次男坊として生誕。豪商の本家・坂本家の分家だったことから、多大な財産を分与された裕福な家庭に育つ。12歳の時、母・幸が死亡。父・八平の後妻・伊予にかいがいしく養育される。

 少年時代、龍馬はどのような少年だったのか?

 『維新土佐勤王史』や『土佐史談』などの記録によれば、龍馬は12〜3歳頃まで夜尿症の習癖があった。臆病者、愚か者と罵られ、漢学の楠山塾に入学したものの、ハナタレ、小便タレといじめも受け、落ち着きや協調性が欠けていたため退塾を余儀なくされた。

 かたや、7歳から塾に通いつつ14歳で代用教員になった中岡慎太郎の早熟さや、13歳で漢学を修得した桂小五郎の俊才ぶりから見ると、龍馬の成長は、やや晩生の印象は拭えない。少年・龍馬は、かなりの劣等感と闘っていたのかもしれない。

 土佐弁で男勝りの女を「はちきん」という。龍馬の3歳年上の姉・乙女は、身長175cm、体重100kgもある、まさに「はちきん」。龍馬は乙女から、剣術、手裏剣、馬術、水練などをスパルタ式に叩き込まれ、体力も気力も少しずつ鍛えられた。

 また、継母・伊与の前夫の実家・川島家をたびたび訪れ、ポルトガルなどから長崎や下関に入って来た土産話を耳に入れたり、世界地図や舶来品を食い入るように眺めては、見も知らぬ異国への憧れを掻き立てられていた。

 乙女も川島家も、少年・龍馬の成長をそっと見守りながら、龍馬の人格や教養は、滋味豊かに培われていった。

脱藩から、薩長同盟、船中八策、暗殺へ......早熟多感な33年

 1853(嘉永6)年、江戸の千葉道場で剣術修行し、免許皆伝。1861(文久元)年、土佐勤王党に入党し、翌年、脱藩。勝海舟の門人となり、海軍操練所の設立に東奔西走。1865(慶応元)年、長崎に亀山社中の立ち上げ。1866(慶応2)年、薩長同盟の斡旋、海援隊の結成。1867(慶応3)年、船中八策、大政奉還へ......。

 冷静な判断力で時代を見通しながら、稀に見る行動力を発揮した龍馬。黒子的プロデューサーに徹しつつ、倒幕から明治維新に至る次代のシナリオを演出する大役を果たした。

 世の人は われをなにともゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる
(世間は言いたいように言うがいい。自分の行動の真意は、自分だけが知っているのだから)

 京都国立博物館蔵の「坂本龍馬桂小五郎遺墨」に収められた和歌は、脱藩後の1863(文久3)年頃の作。龍馬の行動の意気込みにも、世間に理解されない独白にも読める。公武合体か、尊皇攘夷か、倒幕か――。混沌とした世情の真っただ中、龍馬は勝海舟と出会い、わが身の置き所にも、向かうべき道にも目覚めていた。

 だが、1867(慶応3)年11月15日、龍馬と中岡慎太郎は、京都河原町の醤油商・近江屋の二階で刺客の急襲を受け、凶刃に倒れる。

龍馬はADHD(注意欠陥・多動性障害)だったのか?

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